通過儀礼があるという話は幼い頃から聞かされていたけれど、それが本当にやってきたときは、あまりの唐突さに流石に驚いた。バス停の前にいつのまにかできていた食堂兼惣菜屋のようなところで並んで買う焼きそばを食べるのを楽しみにしていた私としてはそれが食べられないことだけが心残りだった。大きな天狗の面を持った男と、同じく鬼の面を持った子供と、顔に真っ赤な勾玉のような刺青のある女がその使者で、誰から聞かされたわけでなくとも一目でそれとわかり、玄関先に立つ彼らの姿をみつけたときは予想していた以上にゾッとした。父親が使者の姿が象徴しているものについて何やら説明していた。義経と弁慶と、なんだかよくわからないがああいうものも全部同じことの象徴だという。父親はすでに目つきがおかしい。話している内容がまともだとは思えない。しかし私は出かけなくてはならない。同じ年頃の二人のいとこと一緒にまだ子供の私はひたすら山道のようなところを歩かされた。その後おこることはすべて試練なので乗り越えねばならない。
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